西洋の天文学 ギリシア文明滅亡後、ヨーロッパでは天文学はほぼ省みられなくなり まったくといっていいほど発展がありませんでした。 それはヨーロッパで発達したキリスト教的文化世界観が天も地も神が 創造したと定義しそれらを科学的に検証したり疑問を抱くこと自体さえも 「異端である」としたためと言われています。 しかしギリシアで発達したギリシア天文学はイスラム国家に伝わり アラビア天文学として発展を続けていました。 アラビア天文学はプトレマイオスの「アルマゲスト」を元に研究され 様々な実績を残しました。 9世紀前半フワーリズミーが登場します。 彼はインドの天文学や数学を取り入れた「フワーリズミー天文表」を執筆しました。 彼の研究は多岐に渡り、天文学だけでなく地理学や数学にも大きな業績を残し 天文学の分野では地球の円周をの計算などの業績を残しました。 現在でも使われている「アルゴリズム」という言葉は彼の名前から由来していると言われています。 さらに同時期、アル=バッターニーが登場します。 彼は直径5mに及ぶ高度測定器をそなえた私設天文台を設け、41年間に渡り 球面三角法を用いて観測し、実に489個もの星の恒星表を製作しました。 さらに黄道傾斜角や太陽の遠地点の位置が移動することを発見し、 黄道傾斜角を割り出したり太陽と月の運動の詳しい表、 月の平均運動を改訂したりと、主に太陽についての研究を進め プレトマイオスの天文学を継承し、発展させました。 さらに1年の長さを365日5時間46分22秒と定義しました。(実際には365日5時間48分26秒) アラビア天文学の天文学者は、数学者を兼ねていることが多く 数理天文学の分野が急速に発展したのもこのころです。 16世紀になると、十字軍によってアラビア天文学の成果が ヨーロッパにもたらされ「ルネサンス」が起こります。 それによってヨーロッパが天文学の中心として返り咲くわけですが 偉大な天文学者の研究成果を武力で手に入れるというのは、 あまり良くは思えません。 17世紀になると、望遠鏡が発明され、これまで肉眼で見ることができなかった 天体を見ることができるようになり、観測データが飛躍的に蓄積され これまでにないほどに観測天文学が発展します。 ガリレオ・ガリレイは望遠鏡を最も早く天文学に取り入れた人物の1人とされており 発明されてすぐに10倍のものを購入し、20倍に作り変え、 木星の衛星を4つ発見しました。 これらはガリレオ衛星と名づけられ、現在でもその名で呼ばれています。 さらに、太陽の黒点をはじめて観測し、様々な功績を残しますが 地動説を唱えたため捕らえられ、異端とされたために無期刑を受けてしまう。 その直後に軟禁系に減刑されるものの、それ以降監視をつけられ 散歩以外の外出を禁じられてしまいました。 このころ、ヨハネス・ケブラーによってケブラーの法則が導き出され アイザック・ニュートンがそれを万有引力の法則によって証明し それからの天文学の飛躍的な発展の原動力になります。 1727年には光行差、1838年には年周視差が発見され、 地動説が観測的に証明されました。 それによって地動説が証明され、ガリレオ・ガリレイの地動説は 受け入れられたのですが裁判自体は見直されず、 汚名が返上されるには至りませんでした。 さらに1781年には天王星、1846年には冥王星が発見されます。 19世紀中期には分光学が興り、それまで単に望遠鏡で天体の位置、 形状、明るさを観測するだけだった天文学に 天体からの光を分光してスペクトルを観測するという手法がもたらされます。 スペクトルを観測することによって、天体の温度や さらには含まれる元素の種類や状態まで知ることができようになりました。 また、天体のスペクトルを実験室でのスペクトルと比較することで ドップラー効果によるスペクトルのずれが分かり その天体が持つ視線速度に関する情報を得ることができます。 このように天文学に分光学の手法が取り入れられることによって 天文学から天体物理学という分野が発展して行き、近代天文学に近づいて行きました。 さらに19世紀中期には写真術が発明され、肉眼で観測できないような 暗い天体でも、長時間露光の写真撮影によって観測できるようになりました。 これによって天文学で扱える対象が飛躍的に拡大し、さらなる発展を遂げます。 20世紀に入ると宇宙の様々な天体から電波が放出されていることが発見され、 電波天文学が始まります。 これによってもさらに天文学の領域は広がっていきます。 |