日本の天文学


日本における天文学は、中国からもたらされたものを
発展させたものだと言われています。
602年、百済の僧観勒が来朝し、中国の暦法等が伝わります。
そして604年、元嘉暦が施行され、日本に初めて暦が取り入れられます。
7世紀に入ると朝廷に内裏機関として陰陽寮が置かれます。
陰陽師というと呪術師や呪い師などが有名ですが、天文学者でもありました。
陰陽寮には天文博士、暦博士、漏刻博士、陰陽博士などの役職があり
それぞれ天変、暦、時刻、占術を管理し、日食や月食などの天変は
国家や天皇に災いをもたらすとされ、祈祷などによってその厄を祓うのが
陰陽寮の仕事でした。
昨今一般的にも認知度が急上昇した安倍晴明なども天文博士で天文学に
精通しており特殊な職業として世襲制で受け継がれていたようです。


この間元嘉暦を廃し、儀鳳暦、大衍暦、五紀暦、宣明暦と改暦されてきましたが
894年に遣唐使が廃止されると、中国からの文化の流入が停止されると共に
改暦も行われなくなり、それによって800年に渡り暦の誤差が蓄積します。
さらに天文学も日本ではほとんど発展せず、天文学後進国となってしまいます。

江戸時代に入り、渋川春海が登場します。
彼は日本人で初めて暦が編纂され、大和暦と名づけます。
そして幕府によって採用され、貞享暦とされます。
これによって800年に渡って蓄積された誤差は修正され
彼はその功績によって江戸幕府によって新設された天文方の職に就きます。
これ以降日本における暦は幕府主導で天文方が管理していくことになります。

1720年に徳川吉宗が禁書の令を緩和することによって蘭学が起こり
天文学も若干発展しますが、やはり他国と比べると非常に遅れた物でした。

江戸時代中期になると麻田剛立が登場します。
彼は日本におけるアマチュア天文学者のさきがけとなる人物で
なんと「ケブラーの法則」を独自で発見し、発表します。
ケブラーの法則というのは
「惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く」
「惑星と太陽とを結ぶ線分の描く面積は単位時間あたり常に一定である」
「星の公転周期の2乗は軌道の半長径の3乗に比例する」
という3つの法則から成り、ニュートンが万有引力の法則を導き出す
元になったとされるものでさらに彼は計算によって日食を正しく予報します。

麻田剛立の弟子である高橋至時はケプラーの楕円軌道理論を取り入れた
太陰太陽暦の寛政暦を発表し、幕府天文方になりました。
その弟子が伊能忠敬で、彼の日本地図作成にも大きく貢献しました。
その後、天文方は高橋至時の息子である長男景保に受け継がれます。


明治維新によって鎖国が終わりを告げると、西洋天文学が日本にも本格的にもたらされます。
1873年には天保暦が廃止され、太陽暦が採用され、現在と同じ暦となります。
1877年に東京大学が設立されると、理学部星学科が設置され
翌年には天文台として星学科観象台が作られました。
この東大理学部星学科からは木村栄や寺尾寿をはじめとして
幾人もの著名な天文学者が輩出されています。


昭和に入ると林フェーズと呼ばれる主系列前の恒星が
明るく輝く時期を発見した林忠四郎や
ニュートリノ天文学を開拓しノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊など
物理学者の中から天体や宇宙を研究対象にする研究者が登場します。
そして数々の著名な学者が日本国内からも登場し、天文学後進国であった日本は
やっと世界に追いつきました。